おれの言い分もちゃんと、聞いてくれ!

漫画雑誌を読んで単行本も読むという姿勢について

「漫画好き」で括るとあれなので「漫画読み」というか「漫画狂い」というカテゴライズで語っていこう

あ、あと、今回は特定の漫画に対して初めて読んだ時のカタルシスを前提に喋ってまーす!

あ、あと最後のp.s.的な面で一つ

途中から「漫画道」とかいうワードを使い始めますが、ガルパン最終章観たい意識から浮かび出た考えなしのものなのであまりつっこまずに…。

漫画読みにおける漫画の楽しみ方の定義はやはり「その漫画を骨の髄まで楽しむこと」この1点に尽き申す。

所属するコミュニティにおいて、私はどうも「漫画雑誌も読んでるよ」という言動を、よく分からないフィルターを通して「だからおれは偉い」と言っているものだと判断されているらしい

大変心外である

 

語り出す前に断っておくと

単行本を読むことは大前提

作家の懐を潤さずして、次の面白いを作者がクリエイトするなんてことはないのだから

また、読み返す度様々な見え方がしてくるという漫画体験も単行本の巧妙である

 

しかし、単行本だけでその漫画を骨の髄まで楽しめたことになるのか?

そんなわけがないでしょうに

 

そもそも漫画雑誌で連載されている漫画は

週間、隔週、月間いずれにしろ、1連の繋がりのあるストーリーをぶつ切りにしているのでなく

1回1回に起承転結を内包した物語の連続で成り立つ

これは言われなくても当たり前のことだが軽視すべきではなかろう

つまり連載されている漫画は

1話ずつ読まれることを前提に作られているという大事な側面にほかならないのだから

 

以上の連載されている漫画の大原則に則れば

漫画を読むにあたって、漫画雑誌を追うのも、単行本で追うのも、どちらも漫画を読むに当たって正確なアプローチである

個で捉えるか群で捉えるか(単行本も全巻通してだと個であるがまぁそこは)

どちらの側面ももつ連載されている漫画にはどちらも正解だ

 

その上で、漫画読みはどれを選択するか

思い出して欲しい「骨の髄までしゃぶり尽くせ」だ

どちらも読むに決まっている

 

では、世の中に「単行本で追った方のみ、あるいは漫画雑誌で追った方のみ」魅力を余すことなく甘受できる漫画はあるのだろうか?

漫画道織笠流本家本元では

答えはNO

 

漫画雑誌における1話ごとの次回への煽り文を読めないゾ単行本

書き下ろしページが読めないゾ漫画雑誌では

 

漫画雑誌と単行本は

漫画読みにとってはフュージョンの関係でありふたりはプリキュア的な関係として捉えるのが当然である

 

私は以上のように、ごく当たり前の漫画読みの姿勢として、漫画を楽しむために漫画雑誌も読んでいるだけなのであって

そこに他より優位に立とうなどの思惑はない

邪推である

 

ここからは漫画道織笠流本家本元からの漫画読みを詐称する人々への苦言なので

漫画を読むことへのこだわりのない方は悪しからず

 

さて

お金を払えばその価値に等しいサービスを受けられる資本主義社会に生きる我々

生活をより良くするために効率の良い仕組みを開発し続ける科学の恩恵を賜っている我々

そんな中に漫画は存在している

 

現代の社会原則に照らし合わせてみよう

寄生獣」400円に対し、「腹ペコのマリー」400円

同じ400円にしても得られるサービスの天と地の差よ

こんな理不尽が現代社会で許されてたまりますか?

マックでビックマックを頼めばビックマックが出てくる

漫画ではビックマックを期待してポテト一欠片みたいな出来事、逆にチキンクリスプ頼んだらメガマックみたいな出来事は盛んである

 

また、電子化が進み、地球はどんどん狭くなっていく中

部屋に閉じこもって延々と絵を描き台詞を、ストーリーを考え

売れるかどうかは神頼み

フリック入力一つで大儲け大爆死の阿鼻叫喚が演じられるようになった昨今において

亀のような愚鈍さで商売をしている漫画業界

(ペンタブなどの便利な装置で作業効率が上がったり、電子書籍化で市場を広げたりなど技術的な革新はあれど、本質は未だ変わっていない)

 

現代社会の、引いては資本主義通念の蔓延るこの世界で、特異な存在である漫画!

愛でずにはいられない!

 

あ、資本主義通念とか言ってますけど

話は単純で

相対化という話です

お金で何もかも相対的に価値付けられるということ

お金が価値の尺度になってしまった

お金で測れないものだってある!その筆頭が漫画ということ

 

お金に代えられないものがあるのは当たり前ですが

忘れがちになってはいないだろうか

こいつは金になるならないで「人間」を測っていないだろうか

そういう目線をもった人間は果たして人間だろうか

資本主義が通じない(実際売れたなんだでちゃんと商いになっていますが、そういうお話ではなく)ということは

漫画には、より人間味があるということ

その価値を忘れてはいけない

 

で、本題は漫画雑誌ですよ

別に単行本で読めるんだから、わざわざ同じ話(しかもたった1話分!)を単行本と同じ値段で読む

資本主義に照らせばなんと無駄

二度手間

そうはならない価値を漫画読みは見い出しているのは上記で既に語った

更に別の側面で語ると

 

手間のかかる非効率的な行動は

先に端的に示した漫画の本質と同義だということ

ネテロだって1日1万回感謝の正拳突きを放っていたが

資本主義社会で感謝の正拳突き1万回は無駄のなにものでもないが

結果ネテロは音を置き去りにした正拳突きを放てるようになった

 

漫画読みはこの場合どうなるか?

それは人ぞれぞれだが

確実に言えることは

漫画道を極めてるなぁということ

 

ただ漫画が好きなら単行本でいい

だが

漫画読みを自称するくらいなら

先にそんなものは漫画道織笠流本家本元に言わせればNOだが、仮に単行本で読むのが1番楽しめる漫画があったとしても

それを承知であえて漫画雑誌も読めと

 

漫画雑誌で好きな漫画全部追うのは金銭的に無理?

漫画読み自称するくらいなら

そのためのお金くらい稼げばいいじゃないですか

 

他にもお金を使いたい?

なるほどあなたは漫画以外でも生きていけるじゃないですか!

漫画読み、漫画狂い、漫画基地外を自称せず

素直に漫画好きと言ってくれれば話は早かったのに!

 

あ、あと流れをぶった切りますが

連載を追うのみの場合と単行本でサクッと読むのみの場合における違いについて少々

これは女遊びの相違と言われればそれまでですが

毎週毎週次はどうなるだろうと漫画雑誌を買い悶々するスタイル

完全にキャバに貢ぐ感じですね

1方単行本は

ソープでどかっと120分コース!

みたいな感じですよね

 

毎週毎週の一喜一憂を煩わしいとショートカットして単行本でサクッと効率的に面白いを味わう

そうです

漫画道織笠流本家本元は

(初めてその漫画を読むにあたり)単行本で追うのみ拳法を(漫画読みを自称する人物が扱うのは)邪道と捉えています。

 

効率は漫画において邪道!暗黒面!

デジタル作画は便利だけどアナログ作画の味が〜とか老害みたいなことを言い出してしまうので割愛(そもそも雑誌も単行本もただのインクの染みなので…)

 

非効率というか忍耐こそ漫画の美学ではないかと思うのです

ソシャゲでガチャを回す

どう森で建設の時間を金で省略する

お金で短時間で快楽を得るよう進化する現代の習慣は

漫画の本質とは相容れない邪道であると思うのです。

 

毎週毎週悶々してあーだこーだ考える

毎週毎週悶々してあーでもないこーでもないと作画する

その悶々を、忍耐を、楽しいと思えることが漫画道ではないか

 

例えばですが、反論の隙を与えず自論をまくし立て、議論の落ち着かぬまま勝利宣言をして一方的にお前は偉そうだと決めつけるような性急さ

ただの漫画好きならば、ライトオタクの言う事だしなと流せますが

漫画読みを自称する方に言われれば

そも、その態度は漫画読みとして如何なものか?

と突っかかってしまうわけです

 

端的に言うと誤解を生みそうであれですが

漫画読みはドMであるべき

 

というのが漫画道織笠流本家本元の意見なので

その他の漫画道の流派の方は

後学のためにも是非流派交流ということで

あなたのお話を聞かせて下さい

 

漫画雑誌を読む私の考えに対して

これを読んでもなお

「ふーんつまりお前は偉いんだな」とトンチンカンなことが言えるようでしたら

もう語るに及ばず

人種というか種族が違うので

もうこの話はやめましょう

こんなでも生きてます

人間、数時間も1日を遡って省みれば、自分が病気であることを自覚できるだろうという話。

 

時は数時間前に遡る。
21時くらいにゼミ同期とラーメン食って
普段帰宅に使う最寄り駅はここからだと遠いと、最寄りの隣駅までのルートを教えてもらった別れ際、ぼくは確実にゼミ同期に「スロット今日は打たない!打つ時間じゃないしね!」と言った。彼もそこは保証してくれる。
にも関わらず、人生で初めて進む道すがらというシチュエーション萌えか、ちょっとだけwとパチスロ屋見かけて足が勝手に……(病気要素1)。
スロット寄ったらまどマギ大当たりだ。
なぜ勝ってしまったんだおれは……ッ!
ここで終わればまだぼくはこんなものを書かかないのだから。

 

22:06ーーー私はパチスロ屋を後にしたーーーー。
そんなぼくのその瞬間の心境!
勝ったことで♂本能が覚醒!射精したい!(これは人類共通の"虐殺文法"的なものなので病気要素としてはノーカン)(味わいたくばスロットを打とう)
「私の戦場は"もう"ここじゃない」かの如く、「探し物探しに行くのさ〜ワンピース!」かの如く、エッチなお店行こうと二駅分くらいは血眼で地道に歩き、探し続けた(病気要素2)。
結果、実態をよく知らないし安いという理由で「アカスリ洗体屋さん」に入った。見栄張って高いコースにしてしまい(病気要素3)、儲けが音を立てて右肩下がりに。

 

とりあえず話はアカスリ洗体屋さん編に移行。
時刻は22:30を回った。
受付とか嬢の見た目とか店の様子とかそこら辺はぼくの病気具合には関係ないのでカット。

マッサージが始まった(当たり前である。リンパマッサージコースを頼んだのだから)(五千円)。
普通にうめぇな〜高めの「てもみん」とでも思って、元取った気分になればええか思って油断したおれ。突然アナルと金魂さわさわしてきて
なんだこれ竿サービスかぁあん!?やっぱエッチなお店やったかぁ!でかした!とか内心悶え股間テポドン発射用意ってたら普通に終了した。
………と思いきや高確演出!激アツ!ボーナス確定!みたいな感じで、フィリピーナの嬢さんがフィリピンアクセントでこう囁く

 

「ちんちん気持ちよくなりたい?」


生まれて初めて現実でエロゲー発言をフィリピーナから受け、おれは応える

 

「三千円までなら出せる…ッ!!」…と。


ママにエッチなお店探して帰宅予定時刻とうに過ぎた中、「今道迷ってる」とのLINEを送り既に30分は過ぎているおれだ。
ーーーーなぜ…!ちんちんに屈した!!(病気要素4)
ーーーーなぜ…フィリピーナが射精させる準備のため個室を抜けた一瞬に連絡を送らなかった…!!
A.病気だから(病気要素5)
ーーーーなぜ昨日買った高めのオナホ!大好きなまほプリのヒロインそっくりのキャラがパッケージされてて一目惚れのオナホ!疲れたからそれで今日はシコると!お前は朝誓ったはずだ!!真っ白な誓いを忘れたか!!(病気要素6)

………などとその瞬間のおれは猛烈に上記の点を猛省していたわけだが、これは一瞬のトランス的な状態であったと今振り返ればそう思える。
なぜか?
ちんぽはビンビンだ、普通なら精液を尿道から発射することしか考えられまい、しかし!私はフィリピーナの射精装備を整え戻ってくるまでの数刻でこの1日全てを振り返る…走馬灯を覚えていたのだーー(病気要素8)。
そんな特異な状態がおれに思考させる。
「アカスリ洗体ってマッサージだけで成り立ってるって立場の割に、ちんぽイかせて下さい!からの延長→射精を前提として、(普通の)(聖なる)(精ではない)マッサージを矮小な前座的立場に追いやってないか?」と。
おれは激怒した。かの邪智暴虐な「アカスリ洗体屋さん」をこの世から消さねばならぬと決意した!!
それからものの数刻でおれは射精した。
だって気持ちいいんだもん。

オナクラ、ピンサロ、ヘルス、ソープと渡り歩いたぼくですが、トイレットペーパーで後処理されたのは新鮮でした。

賢者タイムは光をも凌ぐ速さで訪れ、おれのきったねぇちんぽ触り続けた功労者!フィリピーナの嬢さんの見送りを蔑ろにし「ママに怒られる!」と帰宅を急いだ自分にマイナス点です!

 

帰宅途中の中央線で泥酔リーマンを介抱する居合わせたほろ酔いじーさんにカッケェ!を連発する居合わせた泥酔学生らの輪に囲まれたのはゴミみたいな思い出です。

 

さて時は0:30。
その頃私は、「アカスリ洗体屋さん」でつけられたくっせぇアロマの激臭に気づき、ママにバレぬようどう消臭するかに悩んでいた。
受験期をも凌駕する閃きが舞い降り、私は「タバコの煙を服に吹きかけまくる」を実践していた(病気要素9)
二本目も吸い終わってやっと、これ服じゃなくて、アロマオイル塗られたマイボディから漂うスメルであることに気づき(病気要素10)
どーでも良くなってそのまま帰った。

 

今からオナホでシコって約束を果たそう。自分を裏切るわけにはいかない。
今日はバイトに向け6時起床予定。

 

さっさと死のう。
アディオス。

プリンセスプリキュアの構図的なーー強く優しく美しくーー

人間の人生は既に神話や小説などの様々な表象で既に物語られている
人生は物語を越えられない
これは文学の一つのテーマであるが
プリンセスプリキュアはこのテーマに対して一つの解を提示している
「夢は、可能性は、物語を越えた新しい物語を作る」

プリンセスプリキュアのヒロインはるかは劇中絵本「花のプリンセス」をきっかけにしてプリンセスになる夢を抱く
この絵本の作者ゆめは読者の夢の可能性を閉ざさぬよう敢えて結末を描かなかった
はるかのプリンセスとしての歩みは絵本で既に物語られている(絵本のタイトルは"花のプリンセス"であり、はるかは咲き誇る"花のプリンセス"キュアフローラだ、また、紫の鳥*1に導かれる点なども挙げられよう)けれども結びははるか次第である
先に述べたようにはるかの可能性は絵本つまり物語によって閉ざされてはいない
ここではるかは元の物語を越えて
"はるかの物語"を本編の最終回付近で完成させるだろうし
友人の絵本作家志望のゆいは将来はるかの物語を絵本にするだろう(本編の後半で実際にゆいはプリンセスプリキュアの強く、優しく、美しい姿を絵画に描いていた
((その回においてゆいは第1話でキュアフローラに救われたお花畑と舞台を同じくし
直前にゆめのアドバイスを受け絵本作家への夢を固めた強靭な意志によって絶望の檻を自力でほぼこじ開けるまでになり
ゆいの成長を見せたばかりでなく
絶望の檻を開く力はプリンセスプリキュアのみしかない
にもかかわらずなこの状況はつまり
ゆいも実質はプリキュアであることを暗示させる
それもそのはずで
ゆいもはるかと同じく「花のプリンセス」に感銘を受けた1人の女の子であったからで
はるかはゆいのあり得た可能性の一つなのだ
このような作中人物の役割や人柄が主人公のあり得た未来や過去などのパラレルな要素を付与されている作品はどれも面白いという見方がある)))
そしてその物語も越える未来のプリンセスがその絵本を手にとるはずだ

プリンセスプリキュアの「物語を受け継ぎ乗り越え託す」という構図は現代の"王室"の連綿と受け継がれてきた伝統の様相とニアリーイコールな印象を受ける
テーマをプリンセスとすえたこの作品の一貫性は驚嘆せざるを得ない
「花のプリンセス」の作者ゆめはお嬢様≒プリンセス輩出を目的としたお嬢様学校ノーブル学園の理事長でありはるかやゆいはそこの学生である(ここでも教えを"受け継ぐ"構図が見える)

内容もさることながら上記のような一貫性を保った美しい構成力はどのアニメーションと比較しても充分に傑作たり得よう
幼少期にこのような作品と巡り会えた小さなお友達は幸せ者である
子供にもこの"美しい"構図を理解できるような"優しく"分かりやすい作りが心がけられているからだ
そんな「GO! プリンセスプリキュア」が我々の胸をうつ感動の"強さ"ったらもう!
最終回!見逃せませんね!

*1:勿論アロマのこと